作曲に関して言えば、第三世代出現以前には確かに芸大アカデミズムと呼ばれるようなものが、存在していた。その特徴とは以下の特徴を有する。これは数十年間の毎日音楽コンクール、尾高賞、日本交響楽振興財団作曲賞などでみられた傾向である。
- トータル・セリエリズムを通過していないので音程の跳躍に制限がある。特に中低音域が鈍く、この属性が最も有名。時代遅れのメロディー作法と伴奏法が主流を占める。
- 楽器法の特殊奏法においては古典的なピチカートなどのみで、破壊的な不安をかもし出すピアノなどの内部奏法は、海外では長い間経験的に楽器の損傷は全くありえないとわかっていても、日本のほぼ全てのコンクールでは長期間無条件で厳格に禁じられていた。
- オーケストレーションは常に中音域をマスクする。そのためか、音響はベルト状に上下する。これが二番目に有名。常に全体を「鳴らす」管弦楽法が求められそれをもって管弦楽法の習得とされる。矢代秋雄は「無駄な弦楽の分奏(ディヴィジ)はやめていただきたい」と、生前に語っていた。それは、「鳴らない」音質であるからである。
- 反復語法への依存が高い。フレーズの反復は認められるが、パルスは忌避される。(cf.東音パルス楽派)。同じ繰り返しは3回までと決められる門下もある。
- 原則的に19世紀後半から20世紀前半までのリズム法しか使えない為、各楽器の個性が見出しにくい。
- ベートーヴェン以降の主題の展開法が必要不可欠。
- 音響作曲法の存在はバルトーク的な「効果音」として、十二音技法や電子音楽の習得の義務がないのでメソッドとして教えられる事は無い。
- 同一の密度が全曲に渡って保たれ、セクションを移るまで同じ音響が続く。このため、芸大アカデミズムを見慣れていない海外の作曲家が該当例の作品を査読すると、大抵は「用いられる素材が、音域を考慮しない」という答えが返る。
特定の作曲家に対して「この人が芸大アカデミズム」と安易に判断するのはあまり好ましいものではないが、その拠り所のおおきな一つの理論書となっているのが俗に言うフランス和声の色彩の濃い「芸大和声全3巻」やシャランのフランスの「和声学」や「学習フーガ」などである。他にヒンデミット系の松本民之助は弟子にのみ非売品の作曲テクストを配布しており、これも拠り所の一つになっている。(出典:坂本龍一の証言と執筆者本人が受けたレッスン並びに同僚との議論)
これらの出典は日本の楽譜と海外の楽譜を分析し比較すると、実に容易に特徴が証明できる。「この書き方でないと、卒業できなかった」という証言も多く寄せられており、学習過程でこの演習を経る事が作曲科の課題であった。しかし、問題なのは卒業後も同じ作風と属性を保って弟子に継承していたことなのである。池内友次郎はフランスから帰国したにもかかわらず、なぜこのように音色的に鈍いアカデミズムを擁したのか定かではない。彼の多くのフランス風作法を持った弟子達または孫弟子達の日本音楽コンクールや尾高賞などの大量受賞や審査員への登用などで、次第にそういった語法が日本に定着したものと言われる。当時、最も日本を代表する作曲家の多くが芸大出身者であったことも、かなり大きかったといわれている。(出典:過去数十年間の「音楽年鑑」のまとめ/音楽の友社刊)
当然の話だが、このアカデミズムを駆使して質の高い作品を残している作曲家がいないわけではない。それでも多くの場合は、このアカデミズムで個性を粉砕されるのが日本の慣例となっていた。