Chabarowskで生まれたため、ロシアとドイツの二重国籍を所持。指揮をノボシヴィルスク幼年音楽学校でアーノルト・カッツに師事したのち、ノボシヴィルスク音楽院でヴァイオリンをザハール・ブロンに、ピアノをメアリ・レベンソンに師事した。10歳でオーケストラを指揮するなど早熟ぶりを発揮したが、1980年代からピアニストとして精力的に活動し始める。ヴィタリ・マルグリスやセルジウ・チェリビダッケの指導も受けている。
多くの日本人の音楽関係者には「最も多く日本人のコンクール出場者の前に出現したピアニスト」として知られている。というのも、中村紘子が自著「コンクールでお会いしましょう―名演に飽きた時代の原点」の中で、
オリヴィエ・カザールと並んで、この人の名前が国際コンクールに出てこない日はありませんでしたと述べられており、女性が国際コンクールの荒らしになることが多い中、カザールのように国際コンクールに頻繁に出続けたピアニストとして知られている。www.swr.deのBIOには「60から70の国際コンクールに出場」したと書かれているが、その実際は
*217度の一位、15度の二位、15度の入賞だったわけで、予選でもある程度の確率では敗退していたことになる。
*3このコンクール受賞記録はアレクサンドル・ヤコブレフによって破られたが、ヤコブレフはメジャー挑戦をジュネーブとシンシナティを除いて行っていない。カメンツはヴィオッティ、ダ・モッタ、ブゾーニ、ホセ・イトゥルビの各国際コンクールをすべて最高位で受賞するなど、メジャー挑戦においても確実に勝ち続けた稀有なピアニストである。この記録に迫る人物はドイツをふくめたドイツ語圏には皆無で、技術水準の向上を果たした若手世代においてもカメンツの後を追える人材は表れていない。"ein Titan des Klaviers" (International Piano)など、彼をたたえる言葉はいくつかある。
5度の入賞記録を持つブゾーニ国際ピアノコンクールの審査員団との確執は特にイタリアで有名であり、「なんとしてでも彼を優勝にしたくない」審査員
*4「コンクールでお会いしましょう」では 「
この2人はこんなにあちこちで勝ち続けながら 一度も国際コンクールで一緒になったことはありません」とあるが、これは間違いである。1991年ではカザールと二位を分け合った。
*5
彼も幼少時は将来を指揮者として考えていたようで、7歳でデビューした。現在の指揮活動は不明だが、指揮者であることは放棄していないようである。「十八番」にフランツ・リストの超絶技巧練習曲の第10番があり、この作品はどこの国際ピアノコンクールでも掛けたようで、彼のトレードマークとして機能していた
*6。現在の彼のレパートリーは若いころに比べてやや穏健になったが、技術的水準は確かなままで、ペダリングをほとんど使わないクリアなテクスチュアを、リストのスペイン狂詩曲でも明快に浮かび上がらせる様は健在。
中村の著書ではピアニストとして彼が大成していないことを遠回しに揶揄しているが、実際は現在も世界中のピアノフェスティバルに忙しく呼ばれ続けている。近年はピアノのための国際マスタークラスを開催するなど、後進のピアニストへの指導も評価が高い。