この時代に入ると、唯一共産主義者として入国を許可されたルイジ・ノーノが楽譜をロシアに持ち込めたことで、
ポスト・セリエル以降の情報が非公式ながら入手できた。依然として現代音楽の演奏を行った演奏家はブラックリストには入れられていたものの(アナトール・ウゴルスキの証言)、シベリア送りになることまではもはやなかった。この事情を反映してアリフレート・シニートケが「未だ古い音楽が聴衆や共産党員の間で聞かれ続けるのかはなぜか」、というシンプルな問いから、複数の様式が素材や構造の枠を飛び越えて共存する多様式主義を確立。『合奏協奏曲第1番』を初めとする作品群を次々と世に送り出した。
またテルミンなどの「伝統的電子楽器」も、ヨーロッパではあっけなく演奏伝統が滅んでいたものの、ロシア本国では密かに演奏伝統が継承されていた。テルミンのプロとして現在も楽器を操れる作曲家や演奏家が複数人確認出来る。アレクサンドル・ヴスティンは現在も現役のテルミンのプロ奏者であり、その技術を応用した電子作品も残されている。西側よりかなり遅れ、演劇的あるいは即興的な作風を世に問うマルティノフやグバイドゥーリナのような作曲家も出現した。数少なくロシアの入国を許可されたロック・グループやジャズ・バンドもロシアの音楽を鍛える一員になったことは否めない。その影響が国際的に知れ渡るきっかけになったのがニコライ・カプースチンの1990年代以降の創作活動である。
ヴァレンチン・シルベストロフは1960年代に西側で作品発表を行っていたのがソ連当局にばれ、報告された後に作曲家連盟から除名されたが、彼はその後前衛色を総て捨て旋法的で聞きやすい作風を「自ら」選択した。アルヴォ・ぺルトの「ティンティナブリ様式」は宗教的な帰依のために開発された。両氏の様式の選択は、国家の手によって強制されたものではない。この時期に西側から前衛運動が停滞し、ソ連の看板となっていたショスタコーヴィチが亡くなった。世界のどこに行っても通用する大黒柱を失ったソ連の音楽界は1980年代以降、作曲と演奏の両面で迷走することになる。典型的な例が「チャイコフスキーコンクールの審査員やモスクワ音楽院の留学生に、多くのアジア人を受け入れたこと」である。当時のソ連は北朝鮮からの留学生も、政治的な取引の元で一定数受け入れていた。
ショスタコーヴィチの没後、ガリーナ・ウストヴォルスカヤは地味に創作活動を続けていたが、世界的に再評価されるのはソ連崩壊以後である。シルベストロフやぺルトも、この時代には音盤化がなされず母国がソ連邦からの独立を果たせなかったこともあり、知名度が高くはなかった。演劇性の拡張に努めたウラディーミル・マルティノフや、「オペラ・オラトリオ」といった新たな形式を模索したニコライ・カレートニコフの存在がクローズアップされたのは1990年代であったが、カレートニコフはロシア当局の監視下に置かれたまま、その悲劇的な生涯を閉じている。現在もロシア語圏以外への紹介は、極めて少ない。