19世紀までは文学とのかかわりがあるかないかで決定されてきた。これは西洋のみならず東洋でも同じである。かつてヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽は同時代の音楽学者たちによって「内容過多」と考えられてきたが、この指摘は間違いではない。彼の晩年の「音楽のささげもの」や「フーガの技法」は同時代はおろか100年たっても理解されることはなかったし、初演が100年後という音楽
*1は西洋音楽では全く珍しくないのである。20世紀の音楽のいくつかは著名であるにもかかわらず
*2未初演である。
いかなる音楽が「内容過多」あるいは「内容薄弱」と断じられるのか、一切の科学的証明はない。ポピュラー音楽の研究者はこれについて「個性のない音楽がブラウンミュージックだ」という定義を与えようとしたが、それだと「個性のない音楽とはどのような音楽を指すのか」という疑問が生まれてしまう。
ブゾーニが新音楽起草を発行するころになると数学や物理学のアプローチから、「その音はどこからきたのか」・「その音はどの規則でなるのか」について真剣な検討がなされるように成る。コンピュータによる西洋音楽の検討第一号はイリノイ大学とレジャレン・ヒラー合作「イリアック組曲」であり、コンピュータ音楽だが弦楽四重奏が選ばれ、「フックスの厳格対位法の規則をコンピュータが」読み直したとされている。しかし、全体的に反復語法が用いられており、どこまでフックスの理論を読み込んだのか再証明はなされていない。
1970年代に入り前衛が停滞しだすと、前衛音楽の再解釈をあるいは反省といった観点から、セリー語法の内容について検討がなされるようになった。もっとも名高いのはシェーンベルクの音楽を証明しようとしたジェイムズ・テニーのmeta-hodos, meta-meta-hodosである。日本では近藤譲の線の音楽が日本ではとくに名高い。このように、何度となく音楽の内容を科学で再検討する試みは後を絶たず繰り返され続けているが、繰り返すたびに矛盾が見つかりまたそれを批判され直す、といった作業は終わっていない。
一般に音楽の内容とはそのあらゆる意味での繰り返しの無い情報量であり密度であることがアドルノのセリエル理論を通して導き出すことが一般的になっている。